昭和51年08月11日 朝の御理解
御理解 第96節
「世の人があれこれと神のこと口端にかけるのも、神の比例じゃ。人の口には戸が立てられぬ。先を知ってはおらぬぞ。いかに世の人が顔にかかわる様なことをいうても、腹を立てな。神が顔を洗うてやる。」
昨日四国の二岩教会の先生のことを書いた物を、今度学院から帰ってきた人が頂いて帰ってきとりましたので。読ませて頂く事が出来ました、お話には聞いておりました。もう大変なご比礼を頂いて女の先生です。ま大変様々な難儀まぁ苦労をなさった先生らしいんです。沢山な人が助かり取分け信者時代の人がどんどん助かる。それで隣接教会辺りから随分ひどい仕打ちを受けられた。まぁいろいろそういう障害を乗り越えられて、今日の二岩教会のご比礼がある訳ですけれども。
その書いたものに始めにこういうことが書いてありました。世界中にどれだけの人間がおるか分からないけれども、天地の親神様とお話が出来るという人は世界中に、それこそ数えるだけしかいないという、意味の事が書いてありました。いわゆる二岩の先生は天地の親神様とお話し合いが出来られるという、お徳の受けられた方らしいんです。そのそこに先生のお話を聞きに行った人が書いておるのです。
祈願誌に天地の間の者皆は生かされて生きてあり、そのこと分を知らずして迷い苦しむ人々の難儀救いたまわんと。とありますが。生かされて生きてありそのこと訳を知る。なら迷い苦しむ人達は皆んなそのこと分けを知らんで、苦しんでおるんだと言ういう訳ですけれども。なら知っておっても迷い苦しんでおる人達が沢山あると言う事です。だから知っておるだけではいけんのです。
道理を聞かせて頂いたら、本当に生かされて生きてある喜びが、神恩報謝の心ともなり、同時に天地の事分け、いわゆる天地の道理を聞かしてもろうて、天地の道理に合うた生き方をするから、難儀から救い助けて頂く事が出来るのです。合楽にご神縁を例えば頂いておりましてもです。日々こうして御教えを頂いておりましてもです。その御教えを只聞くだけでは難儀から開放されると言う事ではない。その御教えが身について来るからおかげになるのです。
二岩の先生の場合にはいわゆる世界中で、まぁ何人ともおらないと言う位に、神様とのお話し合いが出来ますから、どんなに人から悪口を言われようが笑われようが、それをじっと辛抱されると言うのではなくて、先の事は知らぬからというところをです、先の事を知っておられたから、そこんところを有り難う辛抱し抜かれた訳です。今日の御理解にございますように、先は知っておらんぞと、先生の場合は神様からお知らせを頂かれて、先々はこういうことにもなるぞと。
人がならとやかく言うとるけれどもね、それは皆んな神の比例じゃと言う風に頂いて来られたからこそ、今日のその二岩の教会のご比例があるのだとこう思います。神様が見事に顔をろうて洗うて下さったのであります。本当にまぁ神様の様な御方だそうですね。そこで私共はそうしたその神様のような様な事は出来んに致しましても。その事分けを知らずしてという、その事分けを知り道理を知って道理に合うた生き方をさせて頂けば、間違いなくその難儀から抜け出る事が出来る。神様から顔を洗うて貰う事も出来る。
先はどうこうということは分からんけれどもね、おかげを頂く事だけは間違いない、そこでですならここで腹を立ててはならんぞというてあるがね、実をいうたら腹を立てたら勿体無い、神の事をとやこういうのも神の比例じゃと仰る。それをんなら個人なら私自身で頂くとです。神様の比例が私の上に現れて来る、神様の願いが神様の思いが、私の上に現れて来る事の為に、人から悪口も言われ非難もされておるのですから、それは実は悪口でもなからなければ非難でもない事。
神様がおかげを下さろうとする只働きであるのですから、そこのところの道理が分かると、いちいち腹を立てたり苦に病んだりする事はいらん、おかげを受けるという事になります。それをいちいちそうではないこうではないと。例えば非難に対する悪口に対する、言い訳をしたところでですおかげにはならん。その場その場はあぁそうでしたかと合点がいっても、だからむしろ合点をいかせんで、それこそ私共は良く分からんけれどもね、只神様はご承知だという世界に住んでおる私達。
神様が見通し聞き通しであんなさるということは、分からして頂いとる私達、だからどういうことであっても、神様が見ておいでの世界だからと。神様が聞いておいでの世界だからと、只神様を信じてそこを有り難く受けていくと言う事が、一番道理に合うた生き方と言う事になるのです。これは人があれこれと人の口には戸はたてられんという道理のようにです、それをひとつひとつ自分で解決しようという様な浅はかな考えでは、神様の比礼を私の上に頂く事はでけない。私の家に比礼を受ける事は出来ない。
私は昨日その二岩の先生のお話を書いたものを読ませて頂いて、そうしたおかげを受けられる為に様々な難儀があったんだ。だから様々な難儀は全部おかげを下さる。今日の二岩教会のご比例を現わして下さろうとする働きであった。それをひとつひとつ人間心でね、それに悩んだり苦しんだり言い訳をしておられたら、今日のご比礼は無かっただろうと思うにつけてもです。お互いの信心がもっともっと神様を信ずる世界に、いわゆる神様が本当に見てござる、聞いてござるという世界に。
住まわなければいけないと言う事が分かります。そういう道理に合うた生き方をさせて頂く事と同時にね、信心は日々の改まりが第一じゃ。信心は本心の玉を磨くものじゃと仰るのですから、そういう例えば人の悪口を言った様な事をです。黙っていうならば拝受する拝んで受けていくと、言う事が出来ないに致しましてもです。その事によって改まる事にしたがよし、その事をもって研く材料にしていったら良い訳です。私共はなかなか拝受それを拝んで有り難く受ける事は、中々難しい先の事が分からんからです。
ところが二岩の先生辺りはそれがお分かりになっとったから、それをいわば拝受しておる、いわば拝んで受けていかれた。私共凡夫はそういう訳には参りませんからね、そういう悪口とか人の口には戸はたてられないような、棒にも箸にもかからん様な事を言われたりされたり致しましてもです。それを拝受していくね、いよいよ自分の心を豊かにしていく大きくしていく、いわゆる自分の心の豊かになるそれを養素ともしていく、自分の心がいよいよ豊かに大きくなるための、養素は拝山にありと。
先日からの御理解の中にも頂きましたよね。だから拝んで頂く事は出来ないにしましても。それを改まりもし研く材料とさせて頂くと言う事は、出来ると思うんです。そういう生き方を致して参りませんとです。なら神様が顔を洗ろうてやるとね、プリプリ腹かいておったんでは何時までたっても、顔を立てて頂く事は出来んのです。腹を立てなとそれを修行の材料にしていくというところに、神様が顔を洗ろうて下さる。神様が顔を洗うて下さる。神様の比礼が私の心に現れる。
私一家に現れると言う事になって参ります時に、まぁそれこそ悪口を言っておった人もです。あれよあれよというばかりである。成程神様じゃなぁと言う様なおかげにも繋がって来るのである。二岩の例から私はそんな事を感じさせて頂く。そこでなら改まる事に研く事に焦点をおかければなりませんが、なかなかもって何処を改まったらよいかと、こう言いたい様な感じが致します。いつも改まる事に焦点をおいとりましても。
昨日私は朝さがらして頂いて、あの茶の間の所を廊下から廊下ですからね、スリッパを履いたままこうやって通り抜けよったら。丁度総子がそこに居りましてね、おじいちゃまという訳、なんねちいうたらスリッパを履いたまま行くなら畳が汚れるやないねて、も本当にもうそれこそ親先生何時も私が、そこをスリッパ履いたまま横切る訳ですよ、それがなら家内も見とるだろう修行性の方達も見とるだろう、親先生はろくそなこつしなさると思いよるけれども誰ぁれも言いやきりません。けども総子じゃから言うとです。
私しゃ本当にこれからは、あのうもうこげなろくそな事はするまいて思わせて頂いたんですけどもね。改まらなきゃならないと思うてもいない、それを当たり前のごと思うとる。平気でしとる様な事がいくらもありゃせんかと思うんです。それを例えば嫁なら嫁がお母さんなあんなと言ったりしておるだろうけれども、まぁ言わんでおるだけの事、だから何かの機会にです。
それこそ臆面もなく言うてくれる人がある時などは、それこそ赤面弁慶になって腹立てる様な事はなしにね、今日のご理解じゃないけれどもね。その言うて頂くということが有り難いと心得て改まっていったらよいのです。こうまか癖ねぇごついよるかと言う様なこつじゃいかんということです。もう昨日を堺にだからスリッパであそこを、茶の間を横切る事は致しませんことを、心の中に思わせて貰いました。
もう本当に些細な事でも、もう改まろうと思えばすぐに改まれる事すらも改まる事がでけん様な事ではね、いよいよそれこそ神様が顔を洗ろうて下さろうという程しの、おかげを前にしておりましても、只ちょっとした事からそれこそ、針の蟻の一穴から堤防が切れると言う位ですからね、心して改まる事に精進しなければならない、心して本気で本心の玉を研いていく事にしなければいけません。今日は二岩教会の例をもって、今日の96節を聞いて頂きました。
どうぞ。